DDTの曲だとKapitan Kolesnikovが一番好きなのですが、そもそもDDTの認知度が低すぎるので、おすすめしても「あぁ...」みたいな反応ばかり。ソ連・ロシア音楽好きにとってはつらいもんです。
youtu.be
信頼と実績のあるOmnister East氏の動画でございますが、映像付きだとさらに良く聴こえますね。メロディーが雄大に感じられます。
Kapitan Kolesnikovの元になったのは2000年8月12日にバレンツ海で起きた原子力潜水艦クルスクの事故です。曲名にあるドミトリー・コレスニコフ大尉は”コレスニコフのメモ”で知られています。
当時ソ連から脱したロシアは、大国としてのメンツを保つために必死にやりくりしていましたが、すこしほころびが出てしまったのか...チェチェン紛争に続いて失態を何度も重ねていき、この事故という。
この事故が起きたときプーチン大統領は休暇中で対応に遅れが生じたことから、批判に次ぐ批判で支持率も下がったらしく...。おそらく事故発生から数時間後には乗員は皆亡くなっていたはずですが、そんなことを知らないロシア国民は「救助や揚陸も後手後手で、早く助けられないのか!」と憤っていたと思います。
2000年8月12日、北方艦隊の演習に参加したクルスクは原子力巡洋艦ピョートル・ヴェリーキイを巡航ミサイルで模擬攻撃する予定でした。9時40分には準備を終わらせたクルスクが出港し、11時40分から13時40分までの間模擬攻撃を実施するはずだったのですが、ピョートル・ヴェリーキイのソナーが11時28分に感知したのは大きな爆発でした。同乗していた北方艦隊司令官のポポフは大きな揺れを感じ、何が起きたか艦長のカサトーノフに尋ねましたが「レーダー基地のアンテナが作動した」と気にも留めず返事をしたそうです。
結局クルスクが模擬攻撃をすることはなく、ヘリコプターまで使ってクルスクの位置を把握しようとしましたが、その惨事に気づくのは夕方になってからでした。
最初の爆発と二度目の爆発で乗員118人中95人がなくなっており、この時点で生き残っているのはコレスニコフ大尉含む23人だけです。第9区画に逃げ延びたコレスニコフ大尉たちは寒く閉鎖的な暗い空間で救助を待っていました。
コレスニコフ大尉は23人の名前を列挙したメモを残しています。
Ольга! Я тебя люблю, не переживай сильно. Г.В. привет. Моим привет.
12.08.2000г 15.15
Здесь темно писать, но наощупь попробую.
Шансов похоже нет, %-10-20
Будем надеяться, что хоть кто-нибудь прочитает
Здесь список л/с отсеков, которые находятся в 9-м, и будут пытаться выйти.
Всем привет, отчаиваться не надо.
Колесников.
オリーチカ(表記ゆれ)!愛してるよ
あまり心配はしなくていい。G.V.によろしく。みんなにもよろしく。
2000年8月12日15時15分
ここは暗くて書きづらいけど、手探りでやっている。
助かる見込みはほとんどない、おそらく10~20%くらいだ。
せめて誰かがこれを読んでくれることを願う。
これは他の区画から来た人員のリストだ。
彼らは今第9区画に居て、脱出を試みる予定だ。
みんなによろしく。絶望する必要はない。
コレスニコフ。
ロシア政府はクルスクの技術が諸外国に漏れることを恐れ、ノルウェーやイギリスの援助を拒絶し自分たちで救助をしようとしました。しかし当時のロシア海軍に、傾いて着底していたクルスクへの対応可能な能力はなく、世界中どこを見てもそれができるのはイギリスだけでした。
16日に援助を要請し、救助艇が着いたのは19日でしたが、当然ながら救うことは出来なかったのです。事故の原因は低い品質で製造された演習用の魚雷の損傷、残っていた23人は大量の酸素を消費する突発的な火事により亡くなりました。
ユーリ・シェフチュクはこの事件を受けて曲をつくるに至りました。他のアーティストたちも大きな影響を受けたようですが。いかにもユーリ・シェフチュクらしいものだと思います。Kapitan Kolesnikovは今でも人気の曲となってますね。
この事故に関して詳しく書かれた論文はこちら
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事故から15年後にロシア・ビヨンドが特集した記事はこちら
原潜「クルスク」沈没事故から15年 - ロシア・ビヨンド